下北のジオパーク応援

目次

健康とジオパーク

なぜ歯科医院のホームページにジオパークのことが記載されているのか、疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。その疑問に答えたいと思います。

 これは平成26年の11月19日に、私と同じ牡牛座生まれのむつ市長の宮下宗一郎さんに提言した内容に基づいて述べています。提言内容は80ページ以上にまとめて市長さんに提出させていただきました。

 提言の要旨は、「健康の問題」と「ゴミの問題」と「下北のジオパーク」の三つの問題を組み合わせて取り組むということです。

 その中から、地域住民の生きがいについて述べた部分を抜粋してみます。

地域住民の生きがい

a. ヴィクトール•E•フランクルの生きがい
[フランクルの概略]
 東日本大震災以後、数多く読まれている名著「夜と霧」
 どんな状況でも人生には意味がある
 生きがいのある健康寿命



周知のように、「夜と霧」はユダヤ人の精神科医フランクルのナチスの強制収容所での体験記である。これはNHKの「100分de名著」でも取り上げられた。東日本大震災以後、読者カードが数多く寄せられたという。

①「夜と霧」は単に強制収容者の記録でなく、「生と死」についての普遍的テーマが書かれているので私の人生のお守りとして読み続けてゆきたいと思っています。

② 予想だにしなかった環境の激変で、立ちすくみ途方に暮れていた私を導いてくれました。私には「生きるように、エネルギーを持って」と言ってくれているかのように。

②は被災者である。被災者は、「あなたのことを必要としている誰か、あなたのことを必要としている何かが、この世界にあるはずです。その誰かな何かに目を向けましょう」という文章にエネルギーを得たのかもしれない。

フランクルは生きる意味を見つける三つの価値を示しました。

創造価値:「創造活動」や「仕事」を通して実現される価値
体験価値:自然とのふれあいや、人とのつながりの中で実現される価値
態度価値:自分で変えることのできない出来事に、その人がどのような態度をとるかによって実現される価値

b. 精神科医•神谷美恵子の生きがい
[神や美恵子さんの概略]
 「臨床医学の誕生」(フーコー)の翻訳者
  精神科医であり、主婦であり、研究者であった
  戦後GHQに対する日本政府の通訳も務めた
  ハンセン病患者に献身的に尽くしたことはよく知られている
  「生きがい」という言葉の創始者ではないかと言われている


神谷美恵子には有名な言葉があります。

 「いったい
  私たちの毎日の生活を
  生きるかいのあるように
  感じさせているものは
  何であろうか
  ひとたび
  生きがいをうしなったら
  どんなふうにしてまた
  新しい生きがいを
  見いだすのであろうか

   が一生のテーマであった。

 「神谷美恵子著作集1生きがいについて」から
 ①生きがいをうしない、絶望と虚無の暗い谷底へおちこんでしまったひとの多くは自殺を考える
 ②生きがいを感じているひとは他人に対してうらみやねたみを感じにくく、寛容でありやすい
 
 ただ生きるのではなく、「生きがいをもって健康に生きること」が大事だと思われます。ジオパークは下北の人たちの生きがいづくりに役立ちます。ゴミの問題は日常生活の習慣を見直す手がかりになります。

「第21回日本ジオパーク委員会審査結果報告書(H26.9.27)」についての要約

この報告書は、【総評】【優れている点】【今後の課題、注意すべき点】という三つの大きな段落からなっています。それぞれは5段落、7段落、9段落という小段落で構成されていますが、下記の通り要約されます。

【総評】5段落9文章の要約

今後、再び、日本ジオパーク加盟申請を出すのであれば、名称、組織、範囲、運営体制等、基本的なコンセプトの再考が必要であり、地球科学的資源の保全と活用に関する実質的な活動将来的な計画が必要と思われる。

【優れている点】7段落12文章の要約

付加体の地層や恐山火山などの火山地質仏ヶ浦のような海岸線沿いの特徴的な地形、ヒバ林を含む豊かな森林生態系、津軽海峡や陸奥湾の豊かな海洋生態系など、科学的価値の高いものがいくつもある。

この地域の地質学的な内容については、これまでの研究成果があり、本構想においては、弘前大学、新潟大学、海洋研究開発機構が関与している。森林科学的内容については、下北森林管理署等が関与している。そのため、地質学的内容、森林科学的内容における学術的な質は担保されている。

【今後の課題、注意すべき点】9段落19文章の要約

本構想の範囲は、現在のむつ市と下北郡(旧下北郡)という行政単位である。そのため、地理学的な半島と必ずしも一致しない。

範囲やテーマといった基本的なコンンセプトにおいて、検討が不十分な点が存在する。範囲、名称等については、再検討が必要と思われる。
また地質学に偏りすぎていて、地理学、生態学、考古学、民俗学等々の整理が不十分であり、アイヌの歴史文化などの先住民文化の保全や取り組みが求められる。

今後は、ジオパーク活動によってもたらされる地質、地形や気象等の知識を活用し、住民や観光客に対する防災意識の向上に努めることが必要である。

ジオパークとしての必要条件は満たしているが、十分条件は不足していると簡潔に記載されています。不十分な点は本文では三回繰り返し指摘されていますが(青字)、下記の7項目があげられます。

1. 名称•範囲•テーマといった基本的なコンセプトの再考
2. 地質学偏重並びにその他の分野の理解•認識•整理
3. ジオパーク関係自治体と活動に関係する団体との緊密な組織(ジオパーク協議会事務局)
4. 地域住民が一体となったボトムアップ型の運営体制
5. 実質的な活動
6. 将来的な計画
7. 防災•減災意識の向上

ジオパーク審査結果報告書のテキストマイニング

テキストマイニング(text mining)とはご存知のように、データマイニング(data mining)の一方法で、形態素分析や構文分析から得られた単語の「出現頻度」や「属性」などを分析する方法です。テキストの解析から作成者もしくは書き手の意識に関するより深い知見を得ることができます。マイニングとは「発掘」という意味です。形態素分析とは文章を単語ごとに分割し、どのような単語が何度使われているかを集計する作業。話題分析とは本来は文章に出現する話題の外観を捉え、文章の特徴を分析するものです。

ここで前述の要約が正しいかどうかの「検証」と「審査結果報告書」の詳細を検討するために予備的に単語分析を行いました。各文章の単語を列記して更に内容別にグルーピングを行いました。ここから「審査委員の基本的コンセプト」が推論されます。

【総評】

[第一段落]
①下北半島ジオパーク構想 、本州最北端、下北半島地域
②むつ市、大間町、東通村、風間浦村、佐井村、5市町村、自治体、中心、地域
③地球科学的、価値、地形・地質、森林生態系、海洋生態系、過去の環境変動の痕跡          
④地震学、火山学、それに支えられた地域の暮らし、存在
⑤以上 、ジオパーク 活動、素材、十分、地域

[第二段落]
①ジオパーク、活動、地域、存在、上述、資源
②保全、活用、認識、理解、不十分

[第三段落]
①本構想、範囲テーマ、地域、将来像基本的なコンセプト、問題、存在
②ガイド、養成、各ジオサイト、見せ方、ビジター
③構想段階、検討、内容、準備

[第四段落]
①地域住民、専門家(地質学者以外の専門家を含む)、人
②ジオパーク、討論、機会、運営体制、改善、計画的、準備、必要
③地域住民、一体、ボトムアップ型、ジオパーク活動、推進、体制づくり、必要

[第五段落]
①今後、日本ジオパークネットワーク加盟申請
名称組織範囲運営体制基本的なコンセプト、再考
③地球科学的資源、保全、活用、実質的な活動将来的な計画、必要

【優れている点】

[第一段落]
①付加体、地層、恐山火山、火山地質
仏ヶ浦、海岸線沿い、特徴的な地形
ヒバ林、森林生態系、津軽海峡、陸奥湾、海洋生態系
④科学的価値、観光地、箇所
⑤適度に活用、ジオサイト、露頭の状態、概ね良好

[第二段落]
①自然環境、状態、場所
②未着手、未解明、地球科学的なテーマ、研究、進展、場、期待

[第三段落]
①ジオパーク、活動、地元、地質・地形、理解、地域、あり方、住民、存在
②ジオパーク、活動、地域、将来、活動、定着

[第四段落]
①各自治体関係者、ジオパーク、活用、地域づくり、期待
②諸機関、連携、地域、地質・地形資源、価値、地域、活性化、期待

[第五段落]
①地域、地質学的内容、研究成果、本構想
弘前大学新潟大学海洋研究開発機構、関与
③森林科学的内容、下北森林管理署、関与
④地質学的内容、森林科学的内容、学術的な質、担保

[第六段落]
恐山、地球科学的要素、既存、観光地、プロガイド、地域
②自然環境、保全、活用、意識

[第七段落]
①Uターン、若者、NPO、各種観光関連、組織、施設、働く人
地域活性化、活動、人、各地

【今後の課題、注意すべき点】

[第一段落]
①本構想、範囲、現在、むつ市、下北郡(旧下北郡)、行政単位
②地理学的な半島、一致、本構想、
③テーマ、4つ、海、恵み、島孤、4要素、集積、大地
④構成地域、存在、地学的要素、訴求力、範囲テーマ
基本的なコンセプト、検討、不十分、点、存在、範囲名称、再検討、必要

[第二段落]
①ジオサイト、保全、担保、制度、認識、不十分な点
②制度、名称、規制内容、理解、関連諸機関、連携体制、必要

[第三段落]
①各ジオサイト、既存、看板、存在、表現、改善
②拙速、設置、今後、仕様、内容、十分、精査、仕様、統一、計画的に設置

[第四段落]
①養成講座、受講、ガイド候補、質、量、不十分
②今後、人材、方針、明確、計画、改善、必要

[第五段落]
①ジオパーク協議会事務局、むつ市職員
②ジオパーク活動、当該地域全体
③ジオパーク関係自治体、活動、関係、団体、事務局体制、再検討、必要

[第六段落]
①地域、地質学、研究成果、推進協議会、整理
②一方、地理学、生態学、考古学、民俗学、研究成果、整理、不十分
③範囲、関連分野、既存研究成果、収集、整理、必要

[第七段落]
①既存、観光施設、地質、地形、展示
②ビジター、地域、地球科学的な基礎情報、地誌、理解、場
③今後、段階的改善、必要

[第八段落]
①地域、アイヌの歴史や文化、アイヌ語由来の地名、過去のできごと
②先住民文化、保全、取り組み

[第九段落]
①現在、ジオパーク活動、地域、観光客、防災・減災、取り組み
②今後、ジオパーク活動、地質、地形、気象、知識、活用
③住民、観光客、防災意識、向上、努めること、必要

「名称•範囲•テーマ等の基本的なコンセプトの再考」については、【総評】の第三段落、第五段落、及び【今後の課題、注意すべき点】の第一段落で三度繰り返し指摘されています。従ってこの報告書の最重要点は下記の通りになります。

「下北」という名称の検討

明治11年11月に「郡区町村編制法」が施行されて「下北」という名称が誕生しました。笹澤魯羊さんの「宇曽利百話」によりますと、南部藩は糠部(ぬかのぶ)の馬の牧野を九つに分けました。中でも「田名部馬」は四肢が強く蹄(ひずめ)の固い駿馬として知られていたそうです。

「糠部に一戸、二戸から九戸までの地名がある。これは牧野区劃の木戸に由るもので、一つの木戸に牧馬に従う七つ宛の村があり、都合六十三ヶ村があった。更に東西南北の門があって、貢馬を牽出すの外は濫りに馬の牽出を禁じた。即ち、一戸、二戸、三戸は南門に属し、四戸、五戸は西門に属し、六戸、七戸は北門に属して、八戸、九戸は東門に属した。後に六戸以北田名部までを北部(きたべ)と称し、更に、北郡(きたごうり)と称したのは、この北門に起因するのである。二戸は金田一、四戸は名久井、九戸は伊保内であった。北郡は明治十一年十一月上北、下北の二郡に分割された。」(笹澤魯羊著「宇曽利百話」)

つまり中央に近い方を「上北」、遠い方を「下北」としました。また、同じ笹澤魯羊さんの「田名部町村誌」にも次の記述があります。

「下北一圓を古は糠部郡(ヌカベノコウリ)、宇曽利郷(ウソリゴウ)と唱へた。、、、中略、、、即ち藤原時代より鎌倉時代迄は宇曽利郷。吉野時代より室町時代にかけて北部、江戸時代に北郡と稱へた事になる。、、中略、、明治十一年十月卅日に至り、大小區を廢して新に郡制を布き、北郡を割きて
上北、下北の二郡とした。舊田名部通り三十四ヶ村を以て下北郡となし、田名部に下北郡役所を置き、田名部村外六ヶ村戸長役場を設けて、明治二十二年町村制施行の日に及んだ」


この記述から下北郡は「田名部通」と呼ばれていたことがわかります。 宇曽利百話には「康正三年下北図」なるものが表紙の裏に描かれています。康正三年は西暦1457年ですが、この下北図というのは、後年の名称のようです。

竹内利美さんの「下北の村落社会」によると次のように記載されています。

「『岩手県史』によると、、、中略、、ともかく、下北半島一帯はこうして、南部藩領『北郡』と改められ、南半頚部の西岸は『野辺地通』、東岸は『七戸通』、北半は『田名部通』と区分されて、それぞれ代官所の支配下におかれたのである。」
 
この「下北の村落社会」によると、「郡区町村編制法」は「府県会規則」、「地方税規則」と合わせて、「三新法」と呼ばれていました。公布されたのは明治11年7月で、施行の時期は地方にまかされたようです。「郡區町村編制法」は10月30日に発布されて翌日の11月1日に施行された。中央に近い方を「上北」、遠い方を「下北」とする差別的名称は、明治11年11月1日からです。明治11年は1878年で、137年前です。下北半島がほぼ現在の地形になったのは一万五千年前と言われています(橘善光著「下北の古代文化」)。下北半島の地質学的見地からはごく最近のことなのです。

範囲の検討

審査委員の基本的なコンセプトは「本構想の範囲は、現在のむつ市と下北郡(旧下北郡)という行政単位です。そのため、地理学的な半島と必ずしも一致しない」(【今後の課題、改善すべき点】の第1段落第1文章)ということです。その根拠は何でしょうか。

渋沢敬三さんがつくった九学会連合が下北を調査した報告書が昭和42年の初版で「下北—自然•文化•社会」として発行されています。この調査は昭和38年と39年に行われたようです。前述の「下北の村落社会」は、このときの調査を資料に東北大学社会学教授の竹内利美さんが著したものです。九学会とは、言語学、考古学、社会学、心理学、人類学、地理学、民俗学、民族学、宗教学で、十学会となっても名称に変更はありませんでした。

この文献の第1章下北の自然の第1節下北半島の自然地域区分には「下北半島の中央部には、南北に縦貫する田名部低地帯があり、半島は、これによって東部山地帯と西部山地帯とに分たれる」とあります。中央部と西部山地帯の境界は海なので明瞭ですが、問題は東部山地帯の境界です。

「東部山地帯の脊梁は、尻屋崎の西にあって、ジュラ紀層(従来は古生層といわれていた)からなる桑畑山から片崎山を経て大森に至るまで南北に走る平頂峰群と、その南にあって、朝比奈平から石川台、八郎烏帽子を経て吹越烏帽子に至るまで連なる隆起帯とからなる」(「下北—自然•文化•社会」)

確かに東部山地帯の脊梁は行政単位を越えています。

昭和39年の下北半島の調査に触発される形で「下北史談会」が結成され、会の名称はその後、「下北の歴史と文化を語る会」に変更されたようです。この会は昭和53年に「下北半島の歴史と民俗」を発行しています。第一部下北半島の歴史第一章自然(二)陸上の地形には次の記載が認められます。

「頸北部では、吹越烏帽子を南端として。北端の桑畑山までの山地が、南から安山岩質の噴出岩を経て、中生代ジュラ紀の石灰岩の桑畑山へと続く。この低い山地の東側の太平洋岸は、先に述べた湖沼群(上北湖沼群)から北端の尻屋崎まで直線的な海岸線が五十キロメートルにわたって伸びる。」

湖沼群も下北と上北で分割し得るのかという疑問も起こります。

第一部下北半島の歴史第三章旧石器時代では、旧石器時代の遺跡分布の内、野辺地町の「目ノ越遺跡」と「東北町の長者久保遺跡」が下北という行政単位を越えています。

下北という名称のなかに湖沼群や旧石器時代の遺跡を包括するのは無理があるようです。

テーマの検討

[テーマ]4つの海がもたらす恵みと島弧の4要素が集積する大地
[審査委員会の基本的コンセプト]
【今後の課題、改善すべき点】の第1段落第3文章
 『本構想のテーマ「4つの海がもたらす恵みと島弧の4要素が集積する大地」は、構成地域に関する地学的要素を述べているだけであり、訴求力の弱いものになってしまっている。』

①4つの海

「東は太平洋、西は日本海、南は陸奥湾、北は津軽海峡と四方を異なる海域に囲まれており、むつ市、大間町、東通村、風間浦村、佐井村の5市町村をエリアとしている。」(「下北半島ジオパーク構想」第1章1−2位置)

② プレートテクトニクス

プレートテクトニクスの概略は、今では小学生でも知っています。

地球の表層は大きなもので約9枚のプレートで覆われています。小さなものも合わせると少なくとも約14枚を数えます。これらのプレートの運動はプレートテクトニクスと言われています。テクトニクスとは、ラテン語の建築物の意味で、地球などの惑星の岩石圏の動態をいいます(by Wikipedia)。

「地球という惑星は、それ自体が生きているひとつの熱機関と言える。内因的エネルギーによって固体惑星の様々な構造を形成するプロセスをテクトニクスという」(高橋正樹著「島弧•マグマ•テクトニクス」)。地球型惑星が熱を放出する様式にはホットスポットや熱伝導作用の他にプレートテクトニクスがあります。

日本列島は主としてユーラシアプレート、北アメリカプレートからなり、一部フィリッピン海プレートにも含まれますが、すぐ近くに太平洋プレートが存在しています。

プレートは基本的には変形しない剛体板ですが、地球表面の回転運動をしています。プレート境界部には変形や歪みが生じます。プレート境界は、海嶺(プレート生成境界)、海溝(プレート沈み込み境界)、トランスフォーム断層(トランスフォーム境界)の3種類に分類されます。

③ 島弧について

「プレート沈み込み境界には、しばしば弧状の列島や山脈、あるいは火山列が発達する。そこでそれらを島弧あるいは陸弧などと呼ばれてきた」(高橋正樹著「島弧•マグマ•テクトニクス」)。陸弧とは、海洋に囲まれた島ではなく、大陸辺縁部に上陸した島弧のことをいうそうです。日本列島は、東北日本弧、西南日本弧という2つの異なる島弧が連結したものである、と言われています。

④ 島弧の4要素について

「下北半島ジオパーク構想」によると、
1. 日本海誕生に起因するグリーンタフ地域
2. 脊梁部の第四紀火山
3. 付加体からなる太平洋側の非火山性山地
4. 上記の2と3の間の低地帯

これら4つの基本的な要素が一カ所に集積する国内唯一の場所であり、これらの特徴的な地層や岩石、地形などを海岸沿いの至るところで容易に観察することができる。

審査委員会の基本的なコンセプトは「構成地域に関する地学的要素を述べているだけであり、訴求力の弱いものになってしまっている」ということです。

訴求とは、三省堂の国語辞典によると、「(広告や販売などで)買ってもらうように相手に働きかけること」とあります。訴求力が弱いとは、相手のことを軽視した独善的な表現である、ということでしょうか。

審委員会の基本的なコンセプトを詳しく述べると、
「また地質学に偏りすぎていて、地理学、生態学、考古学、民俗学等々の整理が不十分であり、アイヌの歴史文化などの先住民文化の保全や取り組みが求められる」というものです。

地質学以外の分野としては、地理学、生態学、考古学、民俗学、歴史学(郷土史•地域史•地方史)、海洋学、アイヌの歴史文化、民族学、言語学、社会学、人類学、宗教学、天文学などがあげられます。

これらの分野をどのように掘り下げて組み合わせていけばよいのでしょうか?

ジオパーク•トピックス1 歴史人口学

 地質学以外の分野としては、地理学、生態学、考古学、民俗学、歴史学、(郷土史•地域史•地方史)、海洋学、アイヌの歴史文化、民族学、言語学、社会学、人類学、宗教学、天文学などがあげられると前述しました。まず教科書的な羅列に陥らないようにトピックスを説明する方法で記述します。

 地質学については、奈良正義という大家の先生がいらっしゃいますので、それ以外の分野から始めたいと思います。初回は「歴史人口学」です

 現在では常識として定着しつつありますが、2010年に藻谷浩介さんが「デフレの正体」で経済は人口の波で動くことを示し、全数調査の重要性を明らかにしました。

平均値や対前年同期比ばかり見て絶対数を確認していないために、全体の構造が見えていない」ということを指摘しています。

 日本で「歴史人口学」という学問を確立したのは、速水融さんです。その顛末は著書「歴史人口学で見た日本」に詳しく書かれています。


慶応義塾大学の経済学部の助手であった速水さんは、昭和38年に福澤基金による海外留学制度を利用してポルトガルに留学しました。

フランス人のルイ•アンリの書いた歴史人口学に関する本を読んで、その独創性に気づきます。ルイ•アンリは「教区簿冊」を分析して、個人の出産•死亡に基づく家族復元作業を行いました。これによって人口動態の実態を把握することができました

速水さんは「歴史人口学」という収穫を得て、昭和39年10月の東京オリンピックの直前に日本に帰国しました。

 速水さんは助手時代に「宗門改帳」から、人口の趨勢、出生率、死亡率、結婚年齢などを整理していましたが、この経験を生かしました。
日本最古の宗門改帳は、寛永15年(1638)のものです。これは明治4年まで続きました。宗門改帳の欠点は各藩によって記載方法が異なることですが、長州藩は18世紀の途中で宗門改帳の作成をやめてしまいました。それに代わって戸籍帳をつくっています。この長州藩の戸籍帳が現在の戸籍の原型となっています。

 下北半島の人口の推移については、「下北半島の歴史と民俗」の前田哲男さんの論文第一部第九章「現代Ⅱ(昭和期)」の資料3に整理されています。


享保6年(1712)に下北郡の総人口は26,795人川内が最も多く5,146人、次いで大畑4,533人佐井村4,444人で、このとき田名部は3,951人でした。大湊は1,364人で、風間浦の1,408人大間の1,574人よりも少ない人口でした。

 上記の理由は笹澤魯羊さんの「宇曽利百話」に記載されています。


元禄12年(1699)田名部七湊として大畑大間奥戸佐井牛滝川内大平が決められました。後に脇野沢異国間を加え、大間と奥戸が除かれて、七湊以外を浦と称するようになりました。七湊の問屋は56軒を数えたそうです。

田名部は湊ではないが、長崎俵物御用の大問屋佐藤、山本の両店があり、新町大橋下に海産物の囲蔵が数棟あって、川船で大平湊へ積み下げたようです。長崎俵物とは干アワビや干しナマコなどで中国へ輸出された、とあります。

 廻船の戻荷物は桧材木を積み入れました。田名部川下の三本松に材木土場があり、大平川内大畑奥戸佐井等も海岸又は川岸に材木土場があったようです。
興味深い記述もあります。材木を盗んで積み入れた場合の制裁として、桧1本盗めば桧千本を賠償する掟があったとのことです。

 弁財船は和船時代の代表的商船で、三百石積、五百石積が普通で稀に大型でも七百石積ないし八百石積でしたが、千石積、弍千石積、参千石積の巨船もあったようです。川内の藤田半左衛門という人は、文化8年(1811)に三千石船をつくり、これが半島第一の巨船であったといいます。
脇野沢角屋の順栄丸は千七二石積という記述もあります。

人口数はその地域の繁栄の度合いを示していたことがわかります。大湊の人口は、戦時中の昭和19•20年は29,512人、軍関係では52,850人と記載されています(前述の前田哲男さんの資料から)。

ジオパーク•トピックス2 北のボカシの地域

古代の日本列島は図のように分かれていました。


現在では常識ですが、小熊英二さんが「単一民族の起源」で論考したように、日本は単一民族•単一国家ではありませんでした。
日本という国が現在と同じような形になるのは、明治時代以降のことです。



考古学者の藤本強さんは「日本列島の三つの文化」で、日本文化の多様性を指摘していますが、従来の教科書では「中の文化」が日本の文化です。ほぼ2500年前からの弥生時代以降は、日本列島には、「南の文化」、「中の文化」、「北の文化」の三つが認められるといいます。「中の文化」は東北地方南部から九州の中部までの地域を指します。更にそれぞれの文化圏の間を、「南のボカシの地域」、「北のボカシの地域」と呼んでいます。
藤本さんの提言によると、
下北半島は「北の文化」と「北のボカシの地域」が交叉する地域になっています。



「北のボカシの地域」は東北地方北部と北海道の渡島半島です。古代には「中の文化」はこの地域を「中の文化」化しようとして城柵を設けるなど種々の形で進出を図りますが、頑強な抵抗にあい、思うように進みませんでした。中世には、「北のボカシの地域」を基礎にして平泉に奥州藤原氏の政権が樹立されました。ご承知のようにこの政権は頼朝に滅ぼされましたが、その後も独自の文化を展開しました。その典型例が十三湊の津軽安藤氏です。藤本強さんは、豊臣秀吉の政権の時に「中の文化」の社会に組み込まれたと考えています。

 「北の文化」は続縄文文化擦文文化と展開し、更にはオホーツク文化の影響を受けたアイヌ文化へと続きます。擦文文化は「川の民」の文化ですが、オホーツク文化は「海の民」の文化です。
10−11世紀を中心にして青森県と岩手•秋田両県の北半に高地性集落と呼ばれる遺跡が出現します。「蝦夷館」と呼ばれることもあるそうです。

アイヌ文化は「中の文化」の物流に巻き込まれながらも、自然との調和を保った文化を維持し続けました。下北半島もその影響を受けていると考えられます。

ジオパーク•トピックス3 境界の動態

今回のテーマは「境界の動態」です。わかりやすくいうと、「境界は動く」ということです。この問題は古くて新しい問題です。北は北方領土の問題、南は竹島問題、尖閣諸島の領有問題の解決の糸口が見つかるかもしれません。

 藤本強さんが言うように三つの文化が存在するならば、境界部分の「北のボカシの地域」をどのように捉えるべきかという問題が提起されます。ここで「境界」というものをどう考えるべきか、という課題が浮上します。

 村井章介さんの「境界をまたぐ人びと」には次のように記載されています。

『境界をまたぐ』とは、すでに存在する境界線の内外を往来するということではない。そうした人びとの活動の場自身が境界なのであり、そこでの境界とは、彼らの活動によって伸び縮みする可変的な空間であった。


「境界をまたぐ人々」を村井章介さんは「境界人」と呼んでいます。
境界は固定的なものではなく、境界に生きる人たちの活動によって生き物のように動いていました。その例として、「稲作前線」を上げています。

 「弥生文化は北海道にまでは及ばなかった。弥生時代に並行する時期に、北海道では稲作を伴わない続縄文文化が展開する。注目すべきは、4-5世紀になると続縄文文化が東北北部までを勢力圏におさめ、稲作前線を宮城県北部あたりまで押し下げたことである

 「4-5世紀といえば列島中央部では古墳時代であるが、前方後円墳の分布も仙台平野が北限である。そのおもな原因は気候の寒冷化であろう。
 その後東北北部で稲作が復活するのは7ー8世紀である。東北北部と北海道は共通の文化的様相を色濃くもち、そこの住民たちは、食糧を山・川・海の幸にあおぐ生活を送っていた。これがヤマト国家によってエミシと呼ばれた人びとである。」

境界の問題は、境界が明瞭だと思われていた江戸時代にも起こっていました。

 丹羽邦雄さんの論文「近世における山野河海の所有•支配と明治の変革」(昭和62年発行の「日本の社会史 第2巻 境界領域と交通」所収)によると、江戸三百藩でも藩と藩との境界の争い(藩境争論)がしばしば起こった、と記載されています。

対象となった地帯はほとんど山野でしたが、大名知行高の実質的内容である検地高を表示する検地帳には、山野が含まれていませんでした。特に、近世初期、改易•転封•知行高増減の頻度が高く、信じられないことですが国替えのなかった大名でも支配領域の範囲を明確に把握できませんでした。

藩境は漠然とした山野の境界にあり、正確に把握しようとすれば藩境村の古老百姓に尋ねるほかなかった、ということです。

例えば、元和4年(1618)の津軽•秋田藩の境界争論、明暦2年(1656)の土佐•宇和島藩の藩境争論があります。美林•金山の確保という領主的意図が内蔵されている場合、相互交渉は困難であったと言われています。

ジオパーク•トピックス4 「本州最北端ジオパーク」の提唱

「第21回日本ジオパーク委員会審査結果報告書(H26.9.27)」についての要約から【今後の課題、注意すべき点】9段落19文章の要約をもう一度述べてみます。

本構想の範囲は、現在のむつ市と下北郡(旧下北郡)という行政単位である。そのため、地理学的な半島と必ずしも一致しない。

範囲やテーマといった基本的なコンンセプトにおいて、検討が不十分な点が存在する。範囲、名称等については、再検討が必要と思われる。また地質学に偏りすぎていて、地理学、生態学、考古学、民俗学等々の整理が不十分であり、アイヌの歴史文化などの先住民文化の保全や取り組みが求められる。

今後は、ジオパーク活動によってもたらされる地質、地形や気象等の知識を活用し、住民や観光客に対する防災意識の向上に努めることが必要である。

ジオパークとしての必要条件は満たしているが、十分条件は不足していると簡潔に記載されています。不十分な点は本文では三回繰り返し指摘されていますが(青字)、下記の7項目があげられます。

1. 名称•範囲•テーマといった基本的なコンセプトの再考
2. 地質学偏重並びにその他の分野の理解•認識•整理
3. ジオパーク関係自治体と活動に関係する団体との緊密な組織(ジオパーク協議会事務局)
4. 地域住民が一体となったボトムアップ型の運営体制
5. 実質的な活動
6. 将来的な計画
7. 防災•減災意識の向上


下北の特徴を網羅するには「下北」という名称に治まりきれないということは前述しました。全国の人が最もわかりやすい名称は何かと言いますと「本州最北端ジオパーク」です。「本州最北端」というと「下北」のことです。逆に下北ジオパークといっても、全国的にはすぐには場所が思い浮かばない人たちの方が多いでしょう。「下北ジオパーク」という名称は「下北」を殺し、「本州最北端」という名称は逆に「下北」を生かすのです。なぜかというと「本州最北端」=「下北」だからです。

もともと下北という名称は「北郡(きたごおり)」を分けて、中央に近い方を「上北」、遠い方を「下北」とした差別的名称です。明治11年のことで、わずか138年前のことです。

「下北ジオパーク」に関わる方々は「「第21回日本ジオパーク委員会審査結果報告書(H26.9.27)」を繰り返してお読み下さることをお願いいたします。これは、むつ市役所のホームページからダウンロードできます。さらに、「下北半島ジオパーク申請書」、これはむつ市役所でもらうことができますが、読んでみて下さい。読み比べて検討して下さることをお願いいたします。

ジオパーク•トピックス5 江坂輝彌さん

今年(2015)2月8日慶應大学名誉教授の江坂輝彌さんが95歳で亡くなられました。むつ市出身の八戸市博物館長の工藤竹久さんが、2月26日の東奥日報に江坂輝彌先生をしのぶ文章を寄稿されていました。この記事によると、江坂さんは慶應大学名誉教授であり、日本の縄文研究に大きな足跡を遺されたということです。東通村の吹切沢•物見台•ムシリ遺跡などの発掘調査を行いました。

[2月26日の東奥日報から]
ジオパーク•トピックス5 江坂輝彌さん


江坂輝彌さんには数多くの著書がありますが、昭和42年発行の「日本文化の起源」では、縄文時代の後期にはすでに芋やウリ類の栽培が行われ、稲作の栽培も行われていたのではないかという推論を展開しています。現在では常識ですが、当時としては卓見です。昭和57年発行の「縄文土器文化研究序説」では、土器を見て年代を識別する方法を発表しています。この方法には下北の地元の研究者は驚かされたということです。「このとき、下北半島や八戸で先生から薫陶を受けた人たちが、やがて青森県の考古学研究を担うようなっていったのである」という記事からも青森県の考古学発展への貢献度は高いと思われます。昨年(2014)の6月に逝去された奥様はむつ市出身だということです。

むつ市教育委員会発行の平成21年度「むつ市文化財調査報告 第38集」の明治大学文学部の高瀬克範先生の「江豚沢遺跡(ふぐさわ遺跡)」(青森県遺跡番号 208055)の序文には下記のように記載されています。

青森県むつ市江豚沢遺跡 (北緯41°11′46、東経141°16′32) からは、1952年の江坂輝弥氏 (1953)、1966年の橘善光氏・山本一雄氏 (1967) らによる調査によって、縄文時代晩期末~弥生時代前期並行期の遺 物か出土することか知られてきた。筆者らは、当該期の下北半島における集落構成や資源利用、「江豚沢式」の編年的位置つけとその数値年代の解明などを目的として、本遺跡の発掘調査を2003~2009年にかけて行ってきた (高瀬編2004、2006、2007、2008、2009、江豚沢遺跡調査グループ2006)。 本稿では、その成果の概要について報告する。なお、調査に関わる基本的な情報は、以下の通りである。

ジオパーク•トピックス6 神のように美しい寒立馬

神のように美しい寒立馬
「しあわせの色」から転用

黄金色の草原でゆったりと草を食んでいる、濃い茶色の身体が白く輝いている寒立馬、こんな寒立馬を見たことがあるでしょうか。まるで神の国にいるようです。尻屋崎は神の里に変貌しました。

寒立馬の後ろから夕日がさし、鬣(たてがみ)と両脚が白く輝いています。食んでいる草も黄金色で、まるで神の里で神のように美しい寒立馬を見ているようです。斜めの地平線と遠くの空には、薄い雲。

写真というものは切り取り方で、このように違うものか、別次元の寒立馬とも言えます。

旅をする人は何を求めているでしょうか?日常生活のストレスから解放されて、夢とロマンをどこかで期待しているのではないでしょうか。

旅人は下北のジオパークに何を求めているでしょうか?旅人は、道端の石ころや道そのものにもロマンを感ずることがあります。この道の果て本州最北の地に、神の国があり、黄金色の神の草原には、神のように美しい寒立馬がいて、夕日を浴びながらゆったりと草を食む、そんな光景を思い描くかもしれません。
学術的な説明だけでは得られない何かが、この寒立馬には感じられます。切り口を換えて、次元の異なる世界を演出することも、ジオパーク成功の秘訣かもしれません。

ジオパーク•トピックス7 下北とアイヌ

弘前大学の関根達人先生の「モノから見たアイヌ文化史」は、今年(2016年)の6月20日に発行された、アイヌ文化史に関する最新の文献です。

「あとがき」には次のように書かれています。
「歴史研究が刑事事件だとすれば、古文書を扱う研究者や聞き取り調査を行う民俗(民族)学者は、取調室で容疑者や関係者から事情聴取し、事故現場周辺で聞き込みを行う『刑事』である。我々考古学者は、現場検証を担当し、現場や関係個所から押収された物的証拠に基づき犯行の具体像を浮かび上がらせる『鑑識』ということになる
私は最後に読みましたが、これからこの本を読まれる方は、「あとがき」から読むことをお勧めします。


この本は、関根先生の博士論文である「中近世の蝦夷地と北方交易」をベースとした一般向けの本として書かれたものです。但し、「今回一般向けに書き直すにあたり、できるだけアイヌの物質文化の全体像が見えるよう、新しく資料を加えるなど大幅な変更を行った」とありますように、単なるダイジェストではありません。
関根先生と比肩する、アイヌ学研究者の瀬川拓郎さんが繰り返し述べているように、アイヌとは、神に対する「人間」という意味です。
 下北に住みついたアイヌを「下北アイヌ」と呼ぶと、下北アイヌに関する記述は「津軽アイヌ」に比べると格段に少ないと思われます。
本州アイヌに関する遺物出土地についても、「東通村浜尻屋貝塚(骨角器)」「東通村大平貝塚(骨角器)」「むつ市脇野沢本村(蝦夷拵)」の3カ所だけです。
「本州アイヌ」が「北海道アイヌ」に比べてその存在の痕跡が見えにくい理由が、この本を読んではっきりしました。
弘前藩では、宝暦六年(1756)の乳井貢の「宝暦の改革」によってアイヌの同化政策に大きく方向転換を計ったようです。「弘前藩は習俗•宗教面でアイヌの独自性を否定し,和人化する方向に大きく方針転換したのである」とありますが、南部藩でも次第にこの同化政策を取り入れたのでしょうか。

笹澤魯羊さんの「宇曽利百話」の「蝦夷四題」の項に慶長19年(1614)十月の大坂冬陣に田名部の蝦夷が参陣したという記述があります。また、異国間にアシタカ酋長が、脇野沢にハッピラ酋長がいて、土地の蝦夷を支配していたが、藩主から両酋長に「御救稗を下されて、毎秋蝦夷稗というて村々から量立てたが、明和八年(1771)に至り廃止されて居る」とあります。1771-1756=15ですから、予想よりも短期間に、南部藩も同化政策を取ったことがわかります。
笹澤魯羊さんは次のように続けています。
「蝦夷の多くは此頃既に松前へ渡海した為でもあろう。即ち大阪落城し豊臣氏亡びて徳川氏の治世となり、寛永以後年毎に和人が移り来った為に、蝦夷は曽ての平和郷を騒乱され生活を脅かされるに至り、若干の者は和人と血族を結んだが、多くの者は生活安易な松前に渡ったと推察される.アシタカの後は長兵衛と称して、後に奥戸に移るというけれども其の末は詳でない。ハッピラの後は長松と呼んだが、末裔は永らく脇野沢に住して脇江と性する」
そして後年は、下北半島において、蝦夷を見ることが珍しい事になったと記載されています。
 上記のことから、弘前藩の同化政策は南部藩にも及び、アイヌの人たちの痕跡は埋没してしまったものと思われます。

ジオパーク•トピックス8 下北アイヌの高い経済力とその衰退

「テーマの検討」で述べたように、2年前に提出した「下北ジオパーク構想」についての審査委員会の基本的なコンセプトは、「また地質学に偏りすぎていて、地理学、生態学、考古学、民俗学等々の整理が不十分であり、アイヌの歴史文化などの先住民文化の保全や取り組みが求められる」というものです。審査委員会の基本的なコンセプトに素直に従えばいいのです。

前回の「下北とアイヌ」で、下記のように述べました。
「弘前藩では、宝暦六年(1756)の乳井貢の「宝暦の改革」によってアイヌの同化政策に大きく方向転換を計ったようです。『弘前藩は習俗•宗教面でアイヌの独自性を否定し,和人化する方向に大きく方針転換したのである』」では弘前藩はなぜアイヌの同化政策に踏み切ったのでしょうか?

前回引用した弘前大学の関根達人先生の「モノから見たアイヌ文化史」は「中近世の蝦夷地と北方交易」をベースとしたものです。この本は本文380ページの大著です。サブタイトルは「アイヌ文化と内国化」です。


下北アイヌ」について興味ある記述がありました。「終章 蝦夷地史の構築を目指して」の「2北方交易と蝦夷地内国化の歴史」に次のように書かれています。

一方、下北半島の突端に位置する浜尻屋貝塚は、和人との交易を前提として本州アイヌの人々が14•15世紀に営んだアワビの工場であり、そこでは海獣猟種も行われていた。出土した銛頭の特徴から、貝塚を残した下北アイヌは、日本海側の北海道アイヌと技術基盤を共有していたことが判明した。むつ市脇野沢本村から出土した14世紀頃に製作された金銅装牡丹造腰刀は、下北アイヌもまたヨイチアイヌ同様、高い経済力を持っていたことを示している

しかし長禄元年(1457)のコシャマインの戦いが状況を一変させることになります。

十三湊の終焉とともに北方交易の拠点はヨイチからセタナイに移り、コシャマインの戦いを境にアイヌの物質文化から大陸的様相が急速に失われた。ヨイチが本州と大陸の南北双方と繋がっていたのに対して、セタナイは直接的には上之国•松前•下之国といった道南の和人拠点との限定された交易場であったと思われる

この頃はまだ和人同士の勢力争いに決着はついていないので、主導権は和人よりもアイヌ側にありました。

16世紀末から17世紀後葉に本州アイヌによって下北半島尻屋崎近くに営まれた大平貝塚は、14•15世紀の浜尻屋貝塚同様、和人との交易を前提とするアワビの加工場であり、そこでは海獣猟も行われていた。大平貝塚から出土した銛頭は日本海側の北海道アイヌのものとよく似ており、津軽海峡を挟んで日常的な交流があったと考えられた。近世国家の成立により藩境が設定された後も、シャクシャインの戦いまではアイヌ民族は津軽海峡を自由に行き来していたことが考古学的にも支持される。

シャクシャインの戦いは寛文9年(1669)年ですから、少なくともこのときまではアイヌの人たちは下北半島と北海道との間を自由に往来していたことになります。
アイヌの人たちの交易は、コシャマインの戦いの後、徐々に制限され、シャクシャインの戦いの後、下北と北海道との往来は難しくなったようです。

「岩波講座日本歴史第20巻地域論」の中村和之さんの「中世•近世アイヌ論」には、松前の蠣崎季広が「アイヌとの交易権」を、豊臣政権からも徳川政権からも認められて、ほぼ独占的に手中にすることになったことが記されています。じわじわとアイヌの交易権を制限していきます。そして蠣崎氏は松前氏に姓を改めます。

文禄二年(1593)に、蠣崎慶広は豊臣秀吉から朱印状与えられ、船役を徴収する権利を認められた。これは蠣崎氏が実現したアイヌとの交易の唯一の管轄者としての地位が、豊臣政権によって認められたことを示す。慶長九年(1604)、徳川家康は蠣崎から姓を変えた松前慶広に黒印状を与えてアイヌとの交易権を保障し、「付」でアイヌの自由往来を保障した。この「付」の意味については、幕府の蝦夷地支配、あるいはアイヌに対する外交権限を示すとする解釈に対して、松前藩の許可を受けた和人商人とアイヌは蝦夷地内に往復できることを示したものとする解釈が示されている。

そしてついに、アイヌとの交易を独占し、北海道アイヌと本州アイヌとの交易までも分断してしまうのです。

松前藩はその後、北東北の大名がアイヌとの間で交易関係を持つことを否定し、アイヌとの交易の独占を進めていった。それと同時に松前藩は、北海道アイヌの本州との交易も遮断していった。

そしてさらに松前藩はアイヌとの交易を完全に独占するようになるのです。

松前藩はその後、北東北の大名がアイヌとの間で交易関係を持つことを否定し、アイヌとの交易の独占を進めていった。それと同時に松前藩は、北海道アイヌと本州との交易も遮断していった。北海道アイヌの本州との交易が確認できるのは、正保期(1664-1648)までである。このことは同時に、北海道アイヌと本州アイヌとの関係が分断されたことも示す。

これによって、「津軽アイヌ」や「下北アイヌ」との交易も、弘前藩や南部藩にとって利のあるものではなくなりました。同化政策によって、アイヌを領民として税を徴収する方向に政策が変更されたものと思われます。その原因は「松前藩のアイヌとの交易の独占化」にあるのです。(2016.9.1)

ジオパーク•トピックス9 アイヌ学入門

前回述べましたが、大事なことなので再度記載しておきます。

「テーマの検討」で述べたように、2年前に提出した「下北ジオパーク構想」についての審査委員会の基本的なコンセプトは、
また地質学に偏りすぎていて、地理学、生態学、考古学、民俗学等々の整理が不十分であり、アイヌの歴史文化などの先住民文化の保全や取り組みが求められる」というものです。審査委員会の基本的なコンセプトに素直に従えばいいのです。

アイヌについて勉強してみたい方に最適の本があります。昨年(2015)2月20日発行の「アイヌ学入門」(講談社現代新書)です。著者は瀬川拓郎さん、旭川市博物館の館長さんです。弘前大学の関根達人先生が鑑識家ならば、瀬川さんは刑事と鑑識家と両方の目を持った方です。
「おわりに」にはその真摯な姿勢とアイヌの人たちに対する惜しみない愛着が感じられます。


まず冒頭の部分です。

考古学からアイヌの歴史を研究していると、私たちがアイヌの歴史について知っているのは、実はそのごく一部にすぎないのではないか、私たちは目をつぶってゾウの尻尾にさわり、その全体を論じているのではないか、と考えることがあります。

学問というよりも学ぶ、勉強するということには、面白みと楽しさがなければ本質を感じ取ることはできません。

本書は、アイヌとはどのような人々かをめぐる、このような私自身の追求の過程と発見のよろこびを綴ったものにほかなりません。あまり構えずに、その楽しさを感じ取っていただければうれしく思います。

アイヌの人たちの現在の境遇は、前回述べたように、松前藩の「アイヌとの交易の独占」という暴挙にあります。
その中で「第七章 黄金—アイヌは黄金の民だったか」には夢があります。

19世紀初頭、アイヌ総人口二万四千人だったところへ、17世紀に日本から北海道へ渡った金堀りは五万人を越えたとそうです。

北海道はいくどもゴールドラッシュでわいた『黄金島』です。
江戸時代初期には、アイヌの総人口を上回る多くの和人の金堀りが北海道へ入り込んでいました。


「北海道」の名付け親である探検家の松浦武四郎は、道北の羽幌において手ぬぐいで川底の砂をすくってみたところ、キセルの雁首二つ分の砂金を得、また海辺の砂からも雁首一つ分の砂金を得たそうです。

例えば次のようなエピソードもあります。1882(明治15年)、日高の浦河町に入植したキリスト教団の幹部である向井裕蔵は、アイヌの有力者であるウナシキヤムから革袋に詰まった砂金と、ずっしりと重たい金の箸を見せてもらったということです。

家宝として伝来してきたこの砂金が採取されたのは江戸時代のことでしょう。シャクシャインの戦い以降、北海道へ渡ってくる和人の金堀りは基本的にいなかったはずですから、これはアイヌがみずから採取したものだったのではないでしょうか。

しかし、上記のことはもう一つの事実を疑わせます。
前回述べた、松前藩がアイヌとの交易を独占した本当のねらいは、砂金の独占にあったのではないか、ということです。もう一度掲載します。

松前藩はその後、北東北の大名がアイヌとの間で交易関係を持つことを否定し、アイヌとの交易の独占を進めていった。それと同時に松前藩は、北海道アイヌと本州との交易も遮断していった。北海道アイヌの本州との交易が確認できるのは、正保期(1664-1648)までである。このことは同時に、北海道アイヌと本州アイヌとの関係が分断されたことも示す。

実際、千島アイヌが17世紀に砂金の採取方法だけでなく精錬方法も知っていた可能性もあるということです。また10−11世紀の八戸市の林ノ前遺跡では、金の精錬を行ったるつぼや、るつぼのかわりに用いた土器の底部がみつかっているそうです。あながち夢物語ではありません。本当に大事なことは隠されるものですから。詳細を知りたい方はこの「アイヌ学入門」を読んでみて下さい。

ジオパーク•トピックス10 未解決の課題

9月9日に「下北ジオパーク」が認定されました。
宮下市長さん、ジオパーク推進室長の角本さん、事務局の新谷さんをはじめ関係者の方々のこれまでの尽力に感謝したいと思います。
(東奥日報の記事を掲載します)



ただし、「H26.9.27の審査結果報告書」の課題を全てクリアしているわけではないので、「下北ジオパーク」を今後、維持し発展させていくためには、未解決の課題を解決する必要があります。

ではどのような課題があったのでしょうか?

1.名称•範囲•テーマといった基本的なコンセプトについては再検討を要する

2.本構想の範囲は、現在のむつ市と下北郡(旧下北郡)という行政単位です。そのため、地理学的な半島と必ずしも一致しない

3.また地質学に偏りすぎていて、地理学、生態学、考古学、民俗学等々の整理が不十分であり、アイヌの歴史文化などの先住民文化の保全や取り組みが求められる


整理すると次のようになります。

1. 名称•範囲•テーマといった基本的なコンセプトの再考
2. 地質学偏重並びにその他の分野の理解•認識•整理
3. ジオパーク関係自治体と活動に関係する団体との緊密な組織(ジオパーク協議会事務局)
4. 地域住民が一体となったボトムアップ型の運営体制
5. 実質的な活動
6. 将来的な計画
7. 防災•減災意識の向上

詳細は、
「範囲の検討」、「『下北』という名称の検討」、「テーマの検討」
 を読んで下さい。

ジオパーク•トピックス11 「うそりの風」創刊

平成26年2月の会誌「うそり」の発行を最後に、「下北の歴史と文化を語る会」が解散しました。
しかし平成27年12月に「うそり風の会」として復活して会誌「うそりの風」を創刊しました。



表紙の裏に、瀬川 威さんの「恐山千手観音ブナ」写真が掲載されています。貴重なジオサイトです。




「うそりの風の会」の会長である祐川清人さんの巻頭言です。
「下北ジオパーク構想」にも言及されています。「下北ジオパーク」にとっても貴重な本です。




内容を紹介しましょう。

特集 下北の縄文文化〜海とともに歩民〜
1. 下北文化の源流を語る
—田名部大覚院文書を見てー   富岡一郎
2.明治維新の神仏判然令と下北の神社   祐川清人
3.江戸期下北漂流民の遺物を探しに
 〜モスクワ•サンクトペテルブルクの旅〜     佐藤ミドリ
4.世界遺産•富岡製糸場と郷土•下北の関わり   甲羽智武
5.第二新興丸はなぜ留萌沖で攻撃されたのか   畑中浩美

いずれも「下北ジオパーク構想推進協議会」のメンバーに
名を連ねてもおかしくない人たちです。

裏表紙には瀬川威さんの「佐井村長浜海岸」の写真が掲載されています。




ジオパーク•トピックス12 戦国時代の下北

村井章介さんは「ジオパーク•トピックス3 境界の動態」に続き二度目の登場です。



この本では、「16世紀から17世紀前半にかけての、日本列島および周辺地域•海域の歴史」について語られています。わかりやすい言い方をすると、NHKの大河ドラマ「真田丸」の時代で、信長•秀吉•家康によって天下が統一されていく「中世から近世へ」という変動期です。

村井章介さんは、次のように言っています。

しかしこの変動の歴史的な意味を汲みつくすには、『一国史』的な見方だけでは不十分だ。日本列島をとりまくはるかに広い世界の文脈に即して、列島にうち寄せる歴史の波をとらえなければならない。

では秀吉の時代の、東北そして下北の状況はどうであったのか。
第2章の「蝦夷地と和人血」には次のような文章があります。

このころなお北奥地域には多数のアイヌが居住しており、津軽海峡を往来する『狄船(えぞふね)』の姿がめずらしくなかった。1593(文禄2)年の南部信直書状は、下北の田名部•横浜•野辺地で多くの『ゑぞふね』が建造されていたことを記している

上記の表現から、関ヶ原の戦い(1600年)の少し前の下北の状況がわかります。

1. 東北地方の北には和人とアイヌが混住していたこと
2. 下北の田名部、そして上北の横浜•野辺地には造船所があったこと
3. アイヌの人たちも和人の造船所に、自分たちの船を注文していた事
4. アイヌの人たちは、船をつくるほどの経済力があったこと
5. 津軽海峡の狄船(えぞふね)の往来の頻度が高かったこと


事実、松前藩の正史である「新羅之記録」には、下記のような記述があります。奥州の泰衡軍が頼朝軍に追われて北海道に移り住んだということです。

抑も往古は、此国、上二十日程、下二十日程、松前以東は○川(ムカワ)、西は与依知迄人間住する事、右大将頼朝卿進発して奥州の泰衡を追悼し御いし節、糠部(ぬかのぶ)•津軽より人多く此国に逃げ渡って居住す。
(下線部○川(ムカワ)は畑中記載です)

すなわち、『往古』は、松前から東へ二十日の行程の胆振支庁鵡川、西へ二十日の行程の後志支庁余市までは、「人間」すなわち和人が居住していた。その発祥は、奥州合戦で頼朝軍に敗れた糠部•津軽(いまの青森県にほぼ相当)の人が、北海道島に移住したことにあった、、、。」

糠部(ぬかのぶ)は南部藩の上北から下北のことです。前述しましたが、再掲します。
 明治11年11月に「郡区町村編制法」が施行されて「下北」という名称が誕生しました笹澤魯羊さんの「宇曽利百話」によりますと、南部藩は糠部(ぬかのぶ)の馬の牧野を九つに分けました。中でも「田名部馬」は四肢が強く蹄(ひずめ)の固い駿馬として知られていたそうです。

  「糠部に一戸、二戸から九戸までの地名がある。これは牧野区劃の木戸に由るもので、一つの木戸に牧馬に従う七つ宛の村があり、都合六十三ヶ村があった。更に東西南北の門があって、貢馬を牽出すの外は濫りに馬の牽出を禁じた。即ち、一戸、二戸、三戸は南門に属し、四戸、五戸は西門に属し、六戸、七戸は北門に属して、八戸、九戸は東門に属した。後に六戸以北田名部までを北部(きたべ)と称し、更に、北郡(きたごうり)と称したのは、この北門に起因するのである。二戸は金田一、四戸は名久井、九戸は伊保内であった。北郡は明治十一年十一月上北、下北の二郡に分割された

つまり北海道に和人が定住したのは、「頼朝に破れた糠部•津軽の人が北海道島に移住したことにあった、、、。

和人の居住地域は15世紀なかば以前には道南の全域におよんだことになり、そこではアイヌとの混住を想定しなくてはならない。

和人とアイヌの人たちとの混住の事実は、他の本にも記載があります。
15世紀半ばまでは、北東北から道南まで、和人とアイヌの人たちが混住していたことになります。道南の和人は、主に津軽や下北からの移住者であったということになります。

ジオパーク•トピックス13 下北ジオパークの境界領域

「下北ジオパーク」の境界領域をどう捉えるかという問題は、下北ジオパーク構想の本質的な問題だと思いますが、明治11年の行政的な区分を無批判に受け入れて良いのでしょうか?

「戦国時代の下北」でも引用しましたが、村井章介さんの「世界史のなかの戦国日本」の第2章の「蝦夷地と和人血」には次のような文章があります。

このころなお北奥地域には多数のアイヌが居住しており、津軽海峡を往来する『狄船(えぞふね)』の姿がめずらしくなかった。1593(文禄2)年の南部信直書状は、下北の田名部•横浜•野辺地で多くの『ゑぞふね』が建造されていたことを記している

この中の「下北の田名部•横浜•野辺地」という表現は、横浜•野辺地も下北として捉えられていることを意味します。正確には、横浜や野辺地は上北ですが、元々、上北下北という区別は、恣意的なものです。

「『下北』という名称の検討」で前述しましたように、

 明治11年11月に「郡区町村編制法」が施行されて「下北」という名称が誕生しました。笹澤魯羊さんの「宇曽利百話」によりますと、南部藩は糠部(ぬかのぶ)の馬の牧野を九つに分けました。中でも「田名部馬」は四肢が強く蹄(ひずめ)の固い駿馬として知られていたそうです。

糠部に一戸、二戸から九戸までの地名がある。これは牧野区劃の木戸に由るもので、一つの木戸に牧馬に従う七つ宛の村があり、都合六十三ヶ村があった。更に東西南北の門があって、貢馬を牽出すの外は濫りに馬の牽出を禁じた。即ち、一戸、二戸、三戸は南門に属し、四戸、五戸は西門に属し、六戸、七戸は北門に属して、八戸、九戸は東門に属した。後に六戸以北田名部までを北部(きたべ)と称し、更に、北郡(きたごうり)と称したのは、この北門に起因するのである。二戸は金田一、四戸は名久井、九戸は伊保内であった。北郡は明治十一年十一月上北、下北の二郡に分割された

 つまり中央に近い方を「上北」、遠い方を「下北」としました。また、同じ笹澤魯羊さんの「田名部町村誌」にも同様の記述があります。


もう一例興味深い事実を紹介しましょう。
私はFMアジュールで「デンタルトーク」という番組で歯科の話をさせていただいていますが、その収録を「来さまい館」にあるFMアジュールのスタジオで行っています。
「来さまい館」には7月頃から「下北ジオパーク」の展示が行われています。2回の展示コーナーにもありますが、そこでは「青森県下北半島旅ガイド」(平成28年度版)の「ぐるりんしもきた」がおいてあります。閲覧者が持ち帰ることができるように何冊も積み上げられています。
 一冊持ち帰って読んでみました。興味深い事実がありました。
そこには「横浜町」についての紹介も載っています。これが意味するところは大きいと思います。

実質的には「横浜町」は下北に含まれるのです。少なくとも旅行者はそのように把握していると思います。

私のところに「横浜町」から来院されている患者さんも何人もいます。
私は「本州最北端ジオパーク」という名称を提唱しましたが、地名が入っていないということで却下されました。ところが「三陸ジオパーク」という名称は認められているのです。私は再び「本州最北端ジオパーク」を提唱します。その理由は、「横浜町」と「野辺地町」を加えることにあります。

では「横浜町」と「野地町」を加えるとどういう利点があるのでしょうか?

それは現在の「下北ジオパーク」の範囲の欠点を考えてみれば、すぐに気づく事です。考えて見て下さい。

名称は、「横浜町」と「野辺地町」が了承してくれれば、「下北ジオパーク」のままでもよいでしょう。

ジオパーク•トピックス14 日本という国の境界

下北の歴史を考えるとき、古来、日本という国の境界はどのように把握されてきたのか、という問いは重要です。

鎌倉時代や室町時代には、本州の北の果ては下北半島ではなく、津軽半島でした。司馬遼太郎は「北のまほろば」で、北の最果てを津軽半島としています。

秀吉が北条氏の小田原城を攻めたとき、北海道の松前の蠣崎氏が機敏に駆けつけましたが、秀吉はことのほか喜びました。秀吉が天下を統一しようとしたとき、天下の中に北海道は含まれていなかったからです。
 
 村井章介さんの「境界史の構想」の「境界論と地域論」では、中世史家の網野義彦さんを引用して次のように述べています。

 「歴史をさかのぼれば、『日本』の範域はさまざまにのびちぢみし、その内実も、首都から国境までが均一に中央政府の統治対象となる、といったものではなかった。それどころか、『日本』という名称自身が、古代のある時期に生まれた歴史的生成物にすぎない

  村井章介さんは「ジオパーク•トピックス3 境界の動態」そして「ジオパーク•トピックス12  戦国時代の下北」に続き、三度目の登場です。


村井章介さんは「境界と境界人」という項目の中で、今日的な問題に言及しています。

人間集団は移動し、他の集団と混淆し、その勢力にも盛衰があるから、空間的境界と人的境界がぴったり重なりあうことはない。このズレから同化/排除のモメントが発生する。近代にいたって、『民族国家』という理念が正当性を得た結果、『民族浄化』という名の蛮行が跡を絶たない。境界論からみれば、これは人的境界を空間的境界に暴力的に一致させようとする行為だといえる

境界を活動の場とする人々を、「境界人」とよぶということは前述しました。繰り返しますが、

境界とは、かれらの活動によってのびちぢみする可変的な空間だった。

では境界の価値を決めるのは何でしょうか?

境界は交通にとって外在的な環境ではなく、交通のありかたが境界の性格を左右する相互規定的な関係にある。

交通のありかた」が境界の性格を決めるということです。

下北という地域は、鉄道や自動車という陸上交通の発達によって、現在のような姿になったといってもよいでしょう。

ジオパーク•トピックス15 秀吉の奥羽支配

秀吉の北条誅伐すなわち小田原の北条氏包囲網の真のねらいは、関東や奥羽の豊臣化にありました。城を築くほど時間をかけたのも納得できます。

 「中世奥羽の世界」の最終論文、藤木久志さんの「中世奥羽の週末」には浅野家文書を引用して次のように書かれています。

 「十八年夏の終わりまでに南奥羽の強豪である伊達政宗•最上義光をはじめ北奥の津軽為信や南部信らもそれぞれに小田原入りして秀吉に臣従を誓ったが、戦国の争いに敗れた北羽の湊通季や南羽の蘆名義広は秀吉に会うことも許されず大名への道を断たれた


十八年とは天正十八年で1590年のことです。全ての領主が豊臣の大名になれたわけではありませんでした。北条誅伐への参陣は、戦国の領主が豊臣の家臣として生き残れるかどうかの試金石でした。

 秀吉の目的はもう一つありました。有名な太閤検地です。

 「検地規定によって、大名に検地権を保障しつつ、豊臣軍役に耐えうる財政基盤を確保させ、城破規定によって、大名領域の権力分散を否定し、大名居城をこれまでの独立の戦国大名の本拠から、中央の秀吉の代理として地域支配を貫徹させるための豊臣政権の支城へと転換させようとするものであった。

 太閤検地の目的は領地の石高の確定ですが、更には「太閤蔵入地」の設定にありました。太閤蔵入地は、一国の三分の一にもあたる莫大なものでした。秋田家文書によると、

 「たとえば秋田実季領のばあいは七万八六00余石のじつに三分の一、しかも秋田平野の中心となる地域が蔵入地として豊臣方に割き取られ、管理だけが秋田氏にゆだねられた

 太閤蔵入地は、「朝鮮侵攻の兵站基地」としての役割を担うことになります。
しかしながら、朝鮮出兵は、太閤蔵入地の設定のための大義名分として使われた可能性があります。
 共通の敵を創出して、日本を一国として統治するために、朝鮮出兵が行われたものと、私は考えています。秀吉の朝鮮出兵の真のねらいは、むしろ日本の国内に向けられていたのです。

 このとき南部藩の中興の祖である、第二十六代の藩主南部信直はどのように対応したのでしょうか?

ジオパーク•トピックス16 北奥羽の近世への扉

北奥羽の近世への扉を開けたのは、秀吉です
 秀吉の小田原参陣の招集命令に従うかどうかは、大名として生き残れるかどうかの運命の分かれめだったのです。南部藩の第二十六代藩主の南部信直もこのことを認識していました。

 南部信直については、岩手大学の教授であった森嘉兵衛さんの著書があります。これは「日本の武将 66」として書かれたものです。

 秀吉は、群雄割拠した戦国時代を終息させて新たな中央集権国家へと導きました。日本は、中世から近世へと大きく舵を切ったわけです。

津軽南部の抗争

森嘉兵衛さんによると、
小田原に参陣しない者はたとえ伝統的な古本(古い由緒)あろうと、善政を布いて領民の信頼を集めていたとしても領主権を剥奪されたが、参加組は古本など問題ではないのである。ほんとうに領主権をもっていたかどうかも問題にしなかった。

 しかし、小田原参陣は、後世の我々が考えるほど容易ではありませんでした。隣接地域に敵対組織が存在した場合は尚更です。小田原に参陣したスキに領地を奪われるという危険性がありました。秀吉の天下が続くという保障もありません。
 小田原に近い伊達政宗でさえも容易に動けませんでした。

小田原に出陣したとはいえ、秀吉軍が勝つとは決まっていないのである。もし秀吉軍が破れ潰走することになったときは、関東一円は北条氏の支配である。全く、火中に飛び込むことになる

 南部信直は南部家の中興の祖、近世南部藩の祖と言われています。今の盛岡から以北、今の青森県全体が支配地域で、下北も津軽も含まれていました
 南部信直は、秀吉の重臣である前田利家に手紙を書き、小田原参陣が遅れる事情を説明します。これが後に効果を発揮します。

 第二十三代藩主の南部安信の弟の南部高信は戦上手でした。その長男が南部信直です。南部高信は、安信亡き後も、第二十五代藩主の南部晴政の補佐役を務め、自らも出陣していました。高信は、藩部藩の領土拡大に貢献しました。

大永四年南部安信が弟の高信に命じて津軽を攻め、石川城におらしめたので、高信は石川氏を称するようになった。高信はさらに浪岡城を落とし、これをも支配した。高信は戦国末期における名将として最も活躍し、岩手郡•志和郡•閉伊郡•鹿角郡•津軽など、戦国末期における南部藩領域の拡大はほとんど高信の采配によるものである。」

 大永四年は1524年ですから、秀吉が北条氏を攻めた天正十八年(1590)の66年前のことです。南部藩の直系が途絶えたとき、高信の長男の石川信直が後継者に選ばれました。

信直が信望を得た一つは、その父石川高信が名将で、南部の領域を拡大するに大きな力をもっていたことも見のがすことはできない。
 信直は、実父石川高信が天正九年(1581)石川城に逝去すると、弟政信を津軽郡代として浪岡城におき、その補佐として大光寺左衛門光愛を派遣して後見とした。


 これで家老職は、高信時代の大浦為信汗石隠岐正吉は三人となりました。汗石は「あせし」と読みます。汗石が病死して、残り二人は対立します。

為信は妹を城主政信の側女とし、ついにその縁をもって政権を専断することとなった。
 もう一人の家老職の大光寺はこれを好まず、ついに家中も二派に分かれて対立抗争することとなった。大光寺に対する讒言を繰りかえされて、政信もこれをうとんじ、大光寺もたえかねて病気と称して出仕せず、謀反と流言されるに至って出奔せざるを得なかった
。」

 しかし、大光寺は出奔先の比内地方全体を南部氏の支配とする大手柄を立てます。このことによって、ふたたび藩主である信直の信頼を得て三戸に帰還することができました。

これを見て大浦為信は急に身辺に危険を感じ、ついに独立を決意することとなった。
 天正十六年三月、津軽郡代政信が急死した。これに対して為信が毒殺したとの風評が流れたので、今度は為信の身辺は急を告げ、ついに意を決して叛乱を起こし、比内を奪われて反感を持っていた秋田氏から援兵を受け、南部氏の一族九戸政実と内通し、独立運動を起こして成功した。為信は常に住民を治めるのに意を用い人心を得ていたので、為信に内通するものが多く次第に勢力を拡大した
。」

 大浦為信は後に津軽為信と改名して、弘前藩の基礎を築くことになります。南部藩藩主の信直は九戸政実に攻撃を命じましたが動きませんでした。津軽為信は、小田原参陣に際して機敏な動きを見せます。南部信直よりも三日前に到着して、どさくさ紛れに津軽四郡の本領安堵に成功します。

為信はただの武将ではない。やはり戦国武士中の政治家であり、先の見通しもたしかであった。天正十八年豊臣秀吉から小田原参陣命令がくると、とるものもとりあえず一散に小田原に参陣し、どう説明したか、津軽四郡の本領安堵状をもらい、南部氏に一指もふれさせなかったのである。」

 豊臣側は、三日後に到着した南部信直の話から間違いに気づきますが、本領安堵状を取り消すことはできませんでした。奥羽では、一番に小田原参陣した為信の申し立てを信じてしまったわけです。

 南部信直は、南部家の直系ではなかったので、藩内の対抗勢力である九戸政実らのために小田原参陣が遅れ、大浦為信の独立を阻むことができませんでした。しかし、南部信直は、時代の趨勢をよく捉えて対応し、戦国末期から近世への転換に成功して、近世南部藩を創立します。

信直は常に安全率の最大公約数を基礎にして行動する人間である。彼はついに中央政権の構造から領内の政治を考え、領土の保全を考えるようになった。それは戦国期を生きぬいてきた人にとっては、簡単なようで実は一番むずかしい転換であった。」

 第二十三代南部藩藩主である安信の弟の南部高信改め石川高信は戦上手で形成判断に長じていました。南部藩の領土拡大に貢献した石川高信の長男の石川信直は、直系の後継者が途絶えたときに、第二十六代の南部藩主に選ばれて、姓を改めて南部信直となります。信直は実父である石川高信から教えられることが多かったに違いありません。
 弘前藩の藩祖の大浦為信は、城主石川高信のもとで家老職として仕えていました。おそらく城主石川高信のもとで戦の仕方、城主としての治め方などを学んだと思います。
 大浦為信改め津軽為信と南部信直は、津軽と南部に分かれて近世への一歩を踏み出しましたが、両者は石川高信の愛弟子だったと言えるのです

 後に南部信直は、和賀、稗貫、志和三郡を南部領として秀吉から与えられました。南方に領土が拡大したため、このあと三戸から不来方(こずかた)のちの盛岡に居城を移すことになります

ジオパーク•トピックス17 江戸時代の下北の檜(ひのき)

江戸時代の下北の檜(ひのき)は南部檜といわれていました。

 1973年(昭和48年)に東北大学の教授の豊田武さん監修の「東北の歴史 上•中•下」の三巻が出版されています。

 江戸時代の下北半島の水産業についても書かれています。

下北半島は長い海岸線を有し、陸奥湾は魚貝藻類の豊富なところであるが、主な水産物は、鰯(いわし)•鯣(するめ)•乾鮑(ほしあわび)•帆立貝柱•海参(いりこ)•昆布•石花菜(ところてんぐさ)などで、このほかにも春鰊(にしん)•鱈(たら)•鮪(まぐろ)•鮫(さめ)•鱧(はも)•たなご•鯖(さば)•鯨(くじら)•鮭(さけ)などであった。


下北半島の林業はどうだったのでしょうか?南部藩は下北半島の檜(ひのき)を売って藩の財源とします。

下北半島の檜(ひのき)は天然林の代表的なものの一つである。下北半島は辺境の地にあって開発されることがなかったが、近世に入って南部藩の支配するころになると、中央との交渉もようやく活発となり、経済交流もみられるようになる。その中心となったのが下北半島の檜であった。この檜材が全国的商品として登場してくるのは寛永末年(1643年頃)から寛文期にかけてであり、寛文期(1661〜73)がその最盛期であった。

 下北半島の全域に及んだ檜材の領外移出は運上制度に依りましたが、年間5万6千両にも達し、南部藩の一年間の年貢米販売代金の約半分に相当した、ということです。運上金額は必要な人数を基礎に計算されました。

主にこの材木搬出のため田名部や野辺地などの湊に入津した上方方面の廻船数は600隻(寛文3年)にも達したところからみて相当膨大な量であったことは疑いない。また、材木搬出が地元経済におよぼした影響も大きく、たとえば1665(寛文5)年の田名部地域に他領から流入した米は約一万石を数え、そのほか酒の流入、野辺地を中心とする造船業の賑わいなど著しいものがあった。

南部藩の林政は、伐採量の制限のない大まかなものであったため、その後下北の材木搬出量は次第に減少していきます。
 近世では、山林の資源は米についで重要な財源でした。

ジオパーク•トピックス18 南部藩最大の湊としての田名部湊

江戸時代前半の南部藩の最大の湊は田名部湊でした。
 西廻航路と東廻航路との交叉する位置に下北半島がありますが、江戸時代が開始されてから100年位は西廻航路が主体でした。
江戸の需要が高くなって東廻航路も活用されましたが、西廻航路の需要が絶えることはありませんでした。

西廻航路

東北大学の教授であった渡辺信夫さんの「幕藩制確立期の商品流通」によると、田名部湊は南部藩最大の湊であり、上方との往来が盛んであったそうです。

田名部町には寛文11年まで三斎市の一日市があったが、あらたに六日市(三斎市)が増設され六斎市となり、これを五町の廻市としたのである。
当時田名部湊は上方と結ぶ南部最大の湊であり上方との往来が盛んであった。
こうした商品流通の展開が新市増設の背景である。
一日市の開設が何時行われたかについては不明である。
田名部湊の歴史を考えると、おそらく、戦国期あるいは近世初頭でないかと考えられる。


幕藩制確立期の商品流通

最後の一文、

田名部湊の歴史を考えると、おそらく、戦国期あるいは近世初頭でないかと考えられる。

の出典は笹澤魯羊さんの「下北半島史」に依ります。

下北半島は往昔鬱蒼たる大森林であった。半島の中部は今も猶ほ□及び濶葉樹の密林である。半島の は世に南部檜と呼ばれて永禄、天正の頃既に、加賀、能登、越中方面に積出されている。森林を伐出することは慶長、元和の頃まで殆ど地元住民の自由に任され、唯だ湊から檜を積み出す船に対して積石税の徴収があった。積石税は百石につき砂金拾匁乃至拾弐匁五分(壱両は四匁八分)であった。

永禄、天正の頃」は「1558-1591」ですが、日本海沿岸の北陸方面に運ばれていました。天正18年は1590年で秀吉が北条攻めを行った年です。

下北半嶋史

 南部檜は、西廻航路で日本海沿岸の地域に送られましたが、江戸の発達によって18世紀初頭からは東廻航路によって江戸に運ばれました。

南部檜は夙に裏日本沿岸の国々へ積出され就中北陸筋へ最も多く積出されたが、宝永以後は江戸の発達につれて表日本の航路が開け、南部檜も之に伴ふて江戸送りが始まった。

宝永」年間は「1704-1708」です。江戸幕府が開かれてから100年が経過しています。
檜材の需要は増加し、ついに留山の制度を設けて、檜山輪伐制を施行します。



明暦の大火によって幕府への献木及び藩邸への普請材、並に江戸商人の需用に応じて大量の檜材を江戸へ積出し、爾来年毎に需用を増して伐採量を増加するに至った。寛文年中林相維持のため留山の制度を設け、大畑三ヶ山、牛滝四ヶ山、正津川、佐井、川内、脇野沢、角違、奥内一ヶ山計十三ヶ山の檜山を留山とした。

 「明暦の大火」は明暦3年1月18日から20日(1657年3月2日から4日)にかけて起こった大火事で、当時の江戸の大半を消失したということです。

「明暦の大火」を「ロンドン大火」、「ローマの大火」と並ぶ世界三大大火呼ぶこともあるそうです。

 このとき以来、南部檜は江戸商人に重用されるようになったということですが、禿げ山となる檜山も出てきたので留山制度によって伐採量を制限するようになりました。
享保の頃の留山は三十八ヶ山となったそうです。

ジオパーク•トピックス19 秀吉と海運

西廻海運と東廻海運はいつ頃起こったのでしょうか

 昭和3年に東北大学の教授となった古田良一さんの「海運の歴史」に詳しく述べられています。これは日本歴史新書シリーズの一冊として書かれたもので、昭和36年の前書きには次のようにあります。

海運の歴史

 「書き終わって少し簡単すぎたとも思うけれども、専門家でなく一般の読書人に気軽に読んで頂くには、あるいはこれ位の頁数がよいかとも考えたのである。」

 西廻海運は、
大阪市史には、寛永年間に加賀藩二百五十石ないし三百石積の廻船で米一万石を大阪に廻送したのに始まるとある。」

 寛永年間は1624-1643
年の20年間をいいます。

 一方東廻海運は
 「幕府が遠国から米を江戸に必要を感ずるようになったのは寛文年間からである。これは明暦大火の後に、江戸の市街が著しく膨張し、人口が増加したからである。」

 寛文年間は1661-1672年の12年間です。
西廻海運の方が30年位早いということになります

 ところでこの本の口絵に「南部藩より酒田の加賀屋に宛てた手紙」が掲載されています。

南部藩より酒田の加賀屋に宛てた手紙



 江戸時代の定期的な海運の基礎を築いたのは秀吉です。
 定期的な航路が運行されるためには天下太平であることが前提となりますが、秀吉は天下を統一してこれを実現しました。

 天正16(1588)年7月には「海賊鎮圧令」を発しています。又、秀吉は信長の廻船式目を基本として「海路諸法度」を制定していますが、これが海運統制のための法規となったということです。
 更には朝鮮戦争のための造船その他の命令が海運を発達させています。

海岸沿いの国は高十万石について大船二艘を出すべきを令し、また水手の徴用についても種々令してる。

 秀吉は伏見城の築城に際して秋田藩に船舶建造用の木材を出すように命じています。

このいわゆる『伏見御作事御用板』の運搬が起こるに及んで、木材輸送のために日本海の海運が大いに発展することになった。

 後に南部藩を含む奥羽諸藩の力を動員しています。更には「太閤蔵入地」からの米の輸送も海運の発達に寄与しています。

 南部藩、特に田名部の海運についても、興味深い記述があります。

南部氏は田名部において『ゑぞ船』を仕立てて秋田方面に廻し、仙北の米を買入れて田名部に運んだ。『ゑぞ船』とは蝦夷地の産物を積んだ船をいうのであろう。そして南部氏は、酒田の加賀屋与助、敦賀の道川三郎左衛門、三國新保の久末久五郎等の有力商人と密接な関係を生じ、その持ち船誘致に努力している。こうして田名部を起点とする航路が南部領を上方につなぎ、上方経済圏を南部の果てにまで拡大することになった

 このように、「文禄から慶長初期にかけ、日本海の越前•若狭以東の海運は飛躍的に進展するようになった」ということです。
 また秀吉の「御朱印船」は、国外の海運の発達をも促し、欧州の造船技術の導入に寄与しています

ジオパーク•トピックス20 五郎正利の活躍

 1185年の「壇ノ浦の戦い」は源氏が平家を滅ぼした戦いとして有名です。
海戦が苦手な源氏軍は、平氏の討伐に苦戦を強いられていました。

海になれぬ東国武士は平氏の討伐に、常に兵船の不足に悩みつづけ、非常な苦戦を重ねていた。

 この状態は、頼朝に寄せた範頼の書状にも認められます。

西海に船なく、兵糧欠乏し、東士等本国を恋い慕い、帰国を希むもの過半と報じているが、この状態は、年明けて元暦二年に入っても、俄には改善されなかった。

 古代末以来、北陸及び西国各地に「船所」なる機関が設置され、水上交通を担っていました。

源氏は、船舶の不足に悩み、海戦に不慣れなまま、平氏を讃岐屋島より追い、やがて長門壇ノ浦で、最後の決戦を迎えようとした三月廿一日周防国在庁船所五郎正利の協力をかち得たのである。

 (有名なラグビーの選手に「五郎丸」という選手がいますが、周防国の船所に「五郎正利」という人がいたんですね。)

翌廿二日には義経は、これらの船を集めて、計を廻らし、やがて準備完了、壇浦目指して解纜、忽ちにして完勝するのであった。
 この時、平氏方船五00艘、源氏方船八四0艘であったというから、周防国在庁船所 五郎正利 一人の調達せる船舶数十艘の比重はかなりなもので、彼の源氏への貢献度は著しく高いものといわねばならない。

 
 上記の顛末は、「吾妻鏡」に準拠して、北大などの教授を歴任された新城常三さんの平成6年発行の「中世水運史の研究」に詳しく書かれています。
 水運とは、海運と河川や湖沼の水運 を総称したものでしょう。


中世水運史の研究



  この本は1012頁の厚い本ですが終章の「近世水運の成立」に中世の水運の特徴が簡潔に記載してあります。
 中世における主たる輸送の対象は米ですが、瀬戸内地方においては塩の輸送も加わりました。

中世荘園年貢の根幹をなすものは米であり、商品のそれも米並びに塩であったといえる。このうち塩の生産は主として瀬戸内地方であったが、米は全国普遍的な産物であった。この米が年貢又は商品として、中央、京•奈良へ輸送されていたが、その輸送範囲に自らなる地域的限界があった。

 陸路よりは遥かに有利な海路においてはやや有利であったが、限界があったようです。

米を海上輸送するものは、瀬戸内•四国•北九州の大半であるが、南九州内陸部からも見られた。さらに北陸道は越後迄、東海地方は遠江迄中央へ米を輸送しているが、その割合はそれ程高いものでなく、しかもそれも海辺地帯が主であった様である。

 中部地方の内陸部、東東海と関東•奥羽の全域は、米の輸送の圏外であり、未だ中央には米の全国的市場が形成が形成されていませんでした。最大のネックは、安全性と運賃の高さでした

 しかし、信長•秀吉の統一事業により、関所の撤廃、海賊の鎮圧などにより安全性が確保されるようになってきました。

 河川の開発などの海運上の諸条件の改善は運賃の低下をもたらしました。江戸時代の海上運賃はどの程度安かったのか?
 幕府もしくは藩の蔵米の運賃は、中世に比して格段に安くなりました。

1. 秋田藩や越後では1.2割から1.9割、
2. 駿河や伊豆では0.45割から0.47割、
3. 紀伊から大阪まで0.23割
4. 広島藩では0.37割
5. 備中より大阪まで0.33割
6. 筑前よりは0.5割

この運賃の低さが近世の海上輸送を盛んにし、全国的市場の成立を可能にしました。

ジオパーク•トピックス21 下北の昆布の流通

 下北の昆布の販売•輸送はいつ頃からどのように行われたのでしょうか?
 鳴海健太郎先生の「下北の海運と文化」から昆布に関する記述を辿ってみましょう。



下北の海運と文化



  「下北産の昆布は、半島の入り口浦から正津川までの間で採ったものが極上品で、春から土用までに採った昆布を‘’早前こんぶ‘’といい、秋冬にかけ風並の強い時に泊浦から大間までの海岸に寄るものを‘’寄りこんぶ‘’といった。寄り昆布は棒早前に仕立てて田名部大橋前の蔵に入れた。この寄り昆布は敦賀•下関•大坂方面に売り捌くのである。

 前回の「中世水運史の研究」から昆布についての記述を拾ってみます。

鰊と昆布とは中世に於いても北海道を中心とする周辺を唯一の産地とし、之以外には殆ど産しない食品である。従って中世史料より鰊または数の子、昆布などの文字を検出することにより、これを直ちに北海道など北方に結び付けることが可能である。
 
 問題は昆布の産地は限られていることです。

北海道が主産地で一部が青森•岩手•宮城の三県に産する。、、中略、、、また大石圭一氏によれば昭和五十年の総収量三万四七00トン中、北海道九一%他の三県は九%とくに宮城県は一%と少ない。

 昆布が文献に現れるのはいつごろからでしょうか?
715(霊亀元年)年と816(貞観三年)年の記述があります。これは奈良時代、平安時代のことです。

所見は『続日本紀』霊亀元年(715)十月丁廿条で、蝦夷須賀君ら先祖以来常にこの血に採れる昆布を年々貢献しているというが、もし真実ならば昆布の朝廷への進献は七世紀に遡るといえる。次はそれより百四十六年後の貞観三年(861)三月、東大寺法会の導師並びに呪願師の供料に昆布二巻が宛てられたが、その移入経路は明らかにしない。さらに『延喜式』にも散見される。民部下の陸奥国の交易雑物に昆布六00斤•索昆布六00斤•細昆布一000斤など昆布はいく種類かに分類されているが、、後略

 奈良時代•平安時代は荘園年貢の輸送が主体です。では昆布はどのように輸送されたのでしょうか?

 「船方の私物輸送」の頁ページに、梶取り•水手といった船頭•船員の私物輸送の記述があります。

前述の如く荘官的梶取りや船頭等の海運業者が、荘園年貢その他の輸送船に、自らの私物の商品を搭載して売却することは、かなり一般的な現象と解して誤りないであろう。これは、商品流通の一ルートとして軽視されぬものがあるが、もとよりその流通経済的意義の過大評価は危険である。

 上記の例として、嘉元三(1305)年、正元元(1259)年の事柄が記載されています。

荘官的梶取•名主的梶取•神人梶取•被官梶取などの船による交易活動と、その富強化を略叙したのであるが、彼らが荘園•社寺•領主等の拘束から解放され、自由な水運業者へと独立する時、その交易活動は更に拡大活発化し、商品流通上に占める彼等の役割は更に上昇するものと考えられる。

 更に「他人輸送」と「自分輸送」という方法があります。
信頼できる梶取り•水手に輸送を依頼する場合は、記録が残りやすいですが、梶取り•水手といった船頭や船員が業者輸送を行う場合、記録は残らない場合が多い、という記述があります。

 鳴海健太郎先生も次のように言っています。
 秀吉そして江戸時代になると、下北半島は、西回り•東周り•蝦夷地周りの接点として機能するようになりました。

(下北の)海運の歴史を明らかにするためには、幕藩体制下の政治•経済の歴史も理解しなくてはならないと思う。
 とにかくいろいろな人びとによって海運文化が、遠い下北の地までも一足飛びに伝えられ、それが素地となって生活領域をひろげ、今日の下北を支えてきたのである。


 「下北の昆布の流通」を考えると、奈良時代•平安時代から下北の昆布が京都や大坂に流通していた可能性が大きいと思われます。

ジオパーク•トピックス22 松浦武四郎の土産(みやげ)

 「北海道の名づけ親」と言われている松浦武四郎に「東奥沿海日誌」という著作があります。この本が書かれたのは安政六年の1859年、42歳のときです。51歳のときに明治元年を迎え,翌年蝦夷地開拓御用掛を拝命します。


下北の海運と文化



 「東奥沿海日誌」は、四つに分かれていますが、その分類の仕方がユニークです。「南部津軽」つまり「南の巻」「部の巻」「津の巻」「軽の巻」に分かれています。
 「南の巻」では馬門村、有戸村、吹越村、百目木村、横濱村、有畑村、奥内村に続き、田名部です。

横濱より六里。奥内より貳里。此處海岸より十丁斗も陸二引上りて市町有。村中に川有。板橋を架たり。この處邊三四五十石の船は入る也。

 下北半島の詳細は「部の巻」からで、書き出しは陰暦十月の二十九日の雪の日でした。

二十九日。雪にて滞留。村内より若もの共遊びに來りて種々のものを被頼認遣す(たのまれしたためはす)。晦日。同滞留。霜月朔日。晴れけれ共又雨と變じ來りし故滞留。

 この後、蛇浦村、奥戸村、大間村、易國間村と続き、桑畑村に着きます。

易國間村より半り。人家八軒。山の崖の下に建たり。漁者のミ。農事も少しするよし。

桑畑村の次は、下風呂村です。

易國間村より二里。桑畑村より一里半。此處シウリ岬荒岬の間の一小湾をなし、岸深く後ろ皆山高くして能き處也。人家五十軒斗。船問屋、小商人、漁者、松前出稼、湯治人、旅籠宿也。惣而富り。船改番所此比立し由也。

 この後は、七曲坂、兜村、赤川村、木の津府村、津山村、湊村と巡り、次は大畑です。

従津山村三十丁。湊より八丁位し、津山より湊通りにかかれば五十斗も有るべし。此處湊の上平坦地にして、東ハ平山つづき。北は川につづきて枕ミて一大市街を為せり。

松浦武四郎が土産を買ったのは、9カ所です。
1. 春光山大善院 本堂十一面観世音。津軽巡礼の札所。
 鰰(はたはた)、鮑(あわび)、□□、海参(いりこ)、鮹(たこ)、
 烏賊(いか)、鱈(たら)
   鯛、比目魚、錦石、青石、赤石、含水石
   木葉石、草葉石、黒水晶
2. 十三浦の潟
 鰯(いわし)、鰰(はたはた)、比目魚(ひらめ)、カスベ、八ツ目鰻(うなぎ)、鱒魚(ます)、いな、ぼら、鮒(ふな)、小海老
3. 岩屋村
 昆布、鰯、鮑、海参、其外雑魚
4. 尻屋村
 鮑、海参、蛸、カジカ、カスベ
5. 泊り村
 鰒、海参、ささめ昆布、鰯、鮹、檜柾、其外雑魚
6. 沼崎村
 豆、八つ目鰻、鰯、比目魚、鮒、鯉、いな、水晶沙
7. 小泊湊
 昆布、鱈、藍、檜材、比目魚、鯛、鮑、海亀、藻魚、鮹、カスベ、牛
8. 三馬屋
 昆布(三馬屋昆布)、含水石
9. 田澤村
 檜材、鰯、蚫、海亀、小海老、藻魚、ホヤ、スホヤ

松浦武四郎は、これらの土産をその都度送ったのでしょうか?